
「信頼」や「共有」は希薄だが「上下」だけは強いる関係
日本人という民族は元来が職人気質と言われている。確かに、あらゆる業界において”拘りの頑固職人”がいて、匠の技を継承したり、究極の技術の更なる先に到達したりと、本当に敬服するが、職人の世界といえば、師匠と弟子の関係だ。
そこには”スパルタ”と表現された猛特訓や、完全に突き放すような冷酷な厳しさがあったが、と同時に師弟愛というものあり、何より師匠と弟子は深い信頼感で結ばれていた。
これが完璧な上下関係だとは言えないが、とても深く結びついた人間関係であるのは間違いない。そこには本当の愛情(相手のことを真剣に考えて思いやり、守ろうとする気持ち)があるからだ。師匠がよほど欲に駆られたり何かに狂ったりしない限りは、決して”パワハラ”は起こらない間柄だ。
しかし、平成以降の日本社会は、前回「うつ病物語 その168」で記したように、昔みたいに「上」は「下」を守ったり世話しなければならない、という義務(=使命)が変質して相当薄まり、互いの関係性はすっかり希薄になったというのに、「上」の権力だけはそのままだった。
組織には都合が良かったし、役職者からすれば既得権益と言ってもいいかもしれない。とにかく「部下」とか「年下」とか「新人」というだけで、完全な上から目線で扱って構わないと考える役員や上司が主流だったのである。
勿論、そんな者達ばかりではなく「人生の先輩」として尊敬する方も沢山いたが、「下」は「上」の言う通りに従わなくてはならない、例えそれが理不尽な命令であっても…、という上下関係が世間の常識だった。
「普段こんなに世話になっているんだから、この人の言うことは聞かないとな」から、「なんで上司だからってこんなに偉そうなんだ」へ
私のここまでの解釈が決して全てではないが、「…うん、なるほど、確かにそういう面はあるかもな」と考えてくれる方は少なくないと思う。
太古の昔から熟成されてきた「主従関係」は、その本質が変化したにも関わらず、あらゆる組織の「上下関係」と名称を変えて、あくまで「上」から見た場合の、大所帯をコントロールする際の便利な仕組みとして使われ、皆、その異常さに気付かずに黙って従ってきた。
しかし、その神髄にあるもの、「相手のことを真剣に考えて思いやり、守ろうとする気持ち」が失われた状態では、上下関係は、一方的な威圧や侵略という支配関係でしかなく、それは「パワーハラスメント」であり、「下」が耐えられなくなって崩れていくのは至極当然のことなのだ。