二人組でも超強力なカリスマバンド

1994年リリース、黒夢の2枚目のシングル。

ビジュアル系パンクロックとして、セールス的にもかなり成功した部類に入る「黒夢」。結成時は4人で構成され、「清春」「人時」「鋭葵」「臣」と、当時は、バンド名やメンバー名にアルファベットやカタカナ表記を使うのが主流だったが、あえて漢字をあてるという、流行に逆らったところからも彼らのスタイルが滲み出ている。

この「ICE MY LIFE」の頃は、既にボーカルの「清春」、ベースの「人時」、ギターの「臣」の3人になっていたが、1995年には、オリコン1位を獲得したアルバム「feminism」のレコーディング中に「臣」が失踪、以降は2人となる。しかし、2人組でも自分達はあくまで”バンド”と主張して活動を続けた。

その後、5枚目のシングル「BEAMS」がCMタイアップもあってヒット。続く「Like@Angel」や「少年」などがセールスを伸ばす一方で、1997年から1998年にかけて230本のライブを敢行するなど、人気はうなぎ上りだったが、1998年に、ベースの人時が脱退の意向を清春に伝えたことで無期限の活動停止を表明。

清春は新しく「SADS」を結成して音楽活動を継続。二人の関係は絶縁状態だったというが、時が経って二人の関係も修復され、2011年に「再開はほぼない」と言っていた黒夢の活動を再開。現在に至る。

黒夢を教えてくれたのは長い付き合いの友人から

中学校に入学した時、それまでの呑気なノリの小学校との雰囲気の違いに気圧された人は少なくないと思うが、私はまさにそうだった。

「おいおい、教科ごとに先生が代わるのかよ」とか思ったし、先輩達は随分と大人に見えた。そこへ新しいクラスである。小学校からの顔なじみも居るにはいたが、仲良しではなかったので、変な緊張をほぐす助けにはならない。

そんな状態でも、少し時間が経つと、何となく波長の合う相手とのグループが出来上がっていく。そんな時、その後、数十年に渡って友人関係が続くことになる友人Bと出会った。

彼は、なかなかの頑固者で意志が固く、見た目は秀才風だが、私と違ってヤンキー系にも舐められないタイプの硬派だった。

高校は別々だったが友人関係は続き、社会人になってからも頻繁に飲みに行ったり、当時流行っていたバーチャファイター他、ファミスタからシミュレーションまで様々なゲームで熱い対戦を繰り広げた。私があらゆるゲームにおいて生涯で一番対戦した相手であったが、奴はどんなゲームでも手強かった。

将棋や麻雀も滅法強い男で、なかなか彼に勝てないのは悔しかったが、彼の一番良かったところは、ここ一番の真剣な勝負において決して手加減をしないところだった。

普段は義理人情に厚いタイプなのだが、いざ勝ち負けという時の、彼のそういったストイックなところが、私にとってのこの上ない魅力だった。

そんな彼の勧めが「黒夢」

彼は、音楽的には、TM NETWORK、BOOWYなんかを好んで聴いていた。あまりアイドル系には反応せず、私と同じくバラード系は殆ど聴かない、というか馬鹿にしているスタンスなのも好みが一緒だった。

ある時、そんな彼が勧めてくれたのが「黒夢」だった。

へえ~っと思ってアルバムを借りてきて聞いてみると、これがまた、どストライク。特にこの「ICE MY LIFE」の旋律には強烈な個性を感じたし、後に”清春節”と言われるクセのある歌唱にも惚れ込んだ。

あと、特に初期から中期の黒夢に顕著だが、人時のベースラインが非常に凝っていて前面に出てくるところもポイントで聴きどころ。いいバンドを紹介してもらったと感動した記憶がある。

その後、彼はあまり黒夢を追っかけている感じでは無かったが、私はというと、大半のアルバムを所有する立派な黒夢ファンになっていた。

 

思い出の曲 43曲目へ

思い出の曲 45曲目へ

思い出の曲 メインメニューへ

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事