ひとりごと雑記 その2「天理教という宗教と精神修練」

2019年のGW前の出来事

2019年、平成から令和に移り変わろうという時のGWは日本全国が基本10連休。私の職場では、工事が入る都合で11連休になっていたこともあり、連休前には、「今はクソ忙しいが、これを乗り越えれば11連休…!」という、ちょっとした高揚感が漂っていた。

連休前最終日、工場内にある現場事務所で仕事をしていると、見た目も仕事振りも超がつくほどの真面目で、誰よりもよく動き、どんな時にも決して声を荒げたりすることもなく、常に温和な表情を浮かべているSさんが仕事を終えて席を立った。

Sさんは41歳になるが、この度、職場で出会った10歳ほど年下の女性と結婚することが決まっていた。その女性は外国からの技能実習生であり、彼女もまた実習生のリーダーとして優秀でしっかりした方で、ウチの職場では、これ以上ないくらいお似合いだと誰もが思うカップルだった。

一足先に帰国している彼女を追いかけるように、Sさんは、連休中に遠方にいるご両親に会いに行くことになっていた。

「Sくん、〇〇〇(彼女の名前)に宜しく言っておいてね!」

「あ、Sさん、道中気を付けて!」

こう声をかけた工場長と私。Sさんは、「あ、いえ、あはは」と照れ笑いを浮かべながら事務所を出ていった。

そして、その姿が、私と工場長が見た、Sさんの最後の姿だった。

壮年性突然死症候群

連休明け前日、明日からの操業に向けた準備のため2時間ほど出勤していた私達の前に、今日は来る予定のない工場長がやってきた。私は、あれっ?と思い、口を開きかけたが、それよりも工場長が早かった。

「…あのさ、Sくんなんだけど、昨日、亡くなったんだわ。」

工場長の表情は硬く、どこか虚ろだった。

…Sさんって、連休中に結婚相手の両親に会いに行ったんでしょ?え?なんで?え…?

「Sさんって、あのSさん…、ですよね?」

「ああ、昨日、連絡が入ったんだけど、亡くなったってこと以外、まだ詳しいことは分からないんだ…。」

その場にいた私の他3名は何も言葉が出ず、しばらく固まってしまった…。

Sさんは結婚相手の彼女を置いて5月4日に一人で帰国、5日には自分の親族との祝宴の後、自室に入ったが、翌日の昼になっても降りてこないので変に思った母親が様子を見に行ったところ、机に伏したまま亡くなっていたとのことだった。

Sさんの死因については旭川医大で数日かけて調べられたが、ついにこれというものは見当たらず、結果、「壮年性突然死症候群」という病名が付けられた。

謎だったSさん

Sさんは、私のような入社30年近くになろうかというプロパー社員と違い、下請けの中途入社で、まだ7~8年のキャリアであったが、物凄く仕事に対して誠実で、常に身を粉にして働き、如何なる労力も惜しまない人だった。

私が今までの人生で出会ってきた数多くの人達のなかでも、Sさんの誠実さや勤勉さは群を抜いていた。Sさんは朗らかで雑談にも応じるが、自身のことを詳しく語る人ではなかったので、「一体どういう人なんだろうか?」という点は、私は勿論、Sさんと長く仕事をしている皆も常々思っていたのだが、それは通夜の場で全て明らかになった。

天理教

Sさん一族は天理教を信仰しており、仏教系の通夜にあたる儀式も「みたまうつしの儀」と言い、成仏という言葉も使わないし線香も無い。作法も大分と異なる。

滞りなく「みたまうつしの儀」が終わり、最後に、今回の儀を取り仕切っていた、地元の天理教の会長さんから講話があったのだが、その話に私達は驚いた。なんとSさんは、若い頃からずっと天理教を信仰して勉強を重ねており、ランクアップの試験にも次々に合格、たまの連休には奈良県の本部神殿にお参りに行く行動力も持ち合わせ、この地方の天理教の次期会長だと期待されていたというのだ。

私はおろか、Sさんと長く仕事をしてきた工場長や他の皆も、そんなことは全く知らず、Sさんのことは、ただただ真面目で誠実な性格なんだと思うばかりだったのだが、そうでは無かった。Sさんの立派過ぎる立ち振る舞いの全ては、長年の修練の賜物だったのだ。

これには、一同、至極納得だった。「そうか、そうだったのか…、だからSさんはあんなに人並外れた仕事振りだったんだ…。」

宗教への偏見

私は、幼少のころから現在に至るまで、宗教とされるものを何も信仰したことがない。それどころか、”宗教”というものを、マインドコントロール的な胡散臭いもの、民衆を束ねたり支配するのに便利なもの、金稼ぎに利用できるもの…、と、否定的に捉えてきた。

流石に30歳台も後半になってきた頃には、世界中に数ある宗教の存在意義やその思想の尊さみたいなものを徐々に、知識としては理解するようになったが、やはり私は、宗教上の理由で肉が食べられないとか、手術が出来ないとか、そういう”縛り”がどうしても理解出来ず、決して言葉には出さないが、心の中では宗教全般を馬鹿にして生きてきた。

だが、宗教というものは、当たり前のことだが、そんな一面だけではなかった。

自分を含め、欲にまみれがちで、楽な方へ楽な方へと行きがちで、とにかく自分達が良ければいい、というだけの考え方では、”何か”で支えたり修正しなければ、もう世の中は何でもアリの滅茶苦茶になってしまう。その”何か”のひとつが信仰心であり、きっと宗教なのだろう。

Sさんは、休憩時間には誰かの失敗談をネタに一緒に笑ったりする、ごく普通で親しみやすい方だったが、何だか凄く透き通った人だなあ…とは思っていた。

きっと休日には、趣味の映画を楽しんだり、お酒やタバコを嗜みながら、天理教の勉強も一生懸命やっていたのだろう。私は、天理教のことを全く知らないし、この先も多分、知らないままだと思うが、信仰心や宗教が、その人の精神修練になるのだということを、そして修練を積んだ人だからこそ立派な人格を身に着けるのだということを、47歳にして初めて知った。

真面目というよりも、とにかくずば抜けたレベルの「誠実」。そして誰にでも優しく、怒りや不満の感情は極力セーブして、目的のみを静かに伝える。こんな人には、もう一生出会えないかも知れない、そんな方だった。

 

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Sさん、今まで僅か10か月の間でしたが、本当にありがとうございました。貴方のような方と、ずっと一緒に仕事がしたかったです。心からご冥福をお祈りいたします。

 

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